書体の移行と篆書
篆刻とは篆書を刻むことです。では篆書とはどういったものでしょうか。
このページでは篆刻を語る上で避けては通れない漢字成立の流れについてご紹介します。
象形文字と呼ばれる漢字のルーツから篆書、今私たちが使っている楷書までを簡単にまとめてみました。
甲骨文字
漢字のルーツは殷墟から出土した甲骨文字(亀の甲や獣骨に、吉凶を占った結果を彫ったもの、前13世紀頃)であるといいます。甲骨とは、亀の甲羅と獣骨の総称で、それらに象形文字が刻んであったので甲骨文字(亀甲獣骨文字)と呼ばれます。甲骨文字が本格的に研究されようになったのは二十世紀には入ってからで、古くには怪しげな文様の入ったこの獣骨は『竜骨』と呼ばれ、はやり熱病の特効薬として他の漢方薬と一緒に並んでいたそうです。総字数は3400字程度。

金文
殷の末期から周の初期には祭器・礼器・楽器・食器・兵器などの青銅器が数多く作られました。これらを称して金鼎彜器(しょうていいき)ともいいます。ほとんどは祖霊の祭祀に使用する祭器的な意味合いがあったためか、複雑な文様が施されています。金属に文字を記すには、タガネで刻すか、鋳型の段階で型を作り鋳造する方法があります。このような方法で金属に記した文字を金文と言います。

大篆
西周の末期、宣王の時代に天文や歴史を司る役人である籀(ちゅう)が『史籀篇』を編んだとされます。その書体は「籀文」「籀書」と呼ばれ早くから世に知られた名称だったようです。唐代に発見された周時代の『石鼓文(せきこぶん)』は、石に刻まれた遺品として最古のものとして有名です。秦の始皇帝が文字を統一して出来た篆書(小篆)と呼応させて「籀文」「籀書」は大篆とも呼ばれます。

小篆
東周衰退後、百余国が入り乱れて興亡を繰り返しついに紀元前221年に秦の始皇帝によって統一された。始皇帝が初めに行ったのは文字の統一でした。小篆は大篆をもとに簡略化された字体で、これまでの金文や大篆から整理が進み筆画が少なく優雅で均整のとれた装飾的な形です。

隷書
急成長した秦は衰退も早いものでした。二世15年続いた秦は倒れ、劉邦が帝位につき長安に都を定め、漢を建てます。漢は紀元前206年から紀元220年まで約400年間続き、書道史のなかでも多種多様な書を生みました。秦代に統一された小篆は字形が美しいのですが、書くのに時間がかかり実用には不便であったため、まもなく獄吏である程?(ていばく)という者が小篆をさらに簡略化し隷書を生み出したとされています。しかし実用例はそれよりも古いため、戦国時代には使われていたようですので、漢時代に小篆を淘汰し一般的に広まったものと思われます。左右の払いで波打つような運筆(波磔)をもち、波磔(はたく)に煽られて一字一字が横長であるのが主な特徴です。漢は前漢と後漢に別れていますが、前漢時代の隷書は古隷といわれ、後漢時代になって華麗な八分隷に移行していきます。

楷書
後漢の末期には隷書をさらに簡単化した楷書が起こり、標準的な書体であった隷書体に代わって、南北朝から隋唐にかけて標準となりました。唐時代までは、「楷書」とは呼ばれず、「隷書」「真書」「正書」と呼ばれていました。書聖と呼ばれる東晋の王羲之の書体が模範とされます。初唐の太宗の時代はであり、優れた能筆家が多数輩出しました。その多くは、石碑の拓本として現代に伝えられています。中でも太宗が離宮・九成宮に避暑に出かけた時に庭から甘泉がわき出したことを魏徴に撰文させ、欧陽詢に書かせた『九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)』(632年)は謹厳にして典雅と称され、「楷法の極則」とされています。
行書・草書
行書・草書は漢の時代に小篆・隷書から発生したと考えられていますが、漢代以前にも草書風の書体が見つかります。三国時代は漢代に隆盛を極めた八分隷が、篆隷体から生まれた草書へ、または行書へそれぞれ独立した書の美しさを形成する時代だったのです。
篆刻に使われる書体
篆刻に主として用いられる字体は、究極の美と言われる小篆、前漢の官・私印に用いられた典雅で荘重な印篆、金文、甲骨文などです。下の画像は印篆。

画像の文字はすべて『馬』でお贈りしました!どの時もたてがみがポイントのようですね。
※私の頼りない知識を補うため不明瞭な部分は『書の基本資料 3、中国書の歴史』(中教出版)を参考にさせていただきました。

